名古屋大学パワエレ研究室武道部

パワーエレクトロニクス研究室のリクレーション活動紹介

大東流合気武道について(1)

 

このブログにて紹介しながらも、大東流合気武道について余り知らなかったことも有り、大野総本部指導員より頂いた文献から、手打ちで打ち出してみました。

下記、大東流合気武道の歴史と紹介です。

長いので、三部に分けました。

 

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 大東流合気武道は古来手乞(てごい)に基づくものである。『古事記』の上巻「葦原中国平定」の項に出雲の国伊那佐の小浜にて建御名方神が建御雷神の神の手を取り若葦の如くつかみ拉ぎ投げたとある。

この手乞は相撲の始めと言われておりその技法は合気陰陽法として伝えられ現在も大東流基本合気投の技である。

 宿禰(すくね)蹴速(けはや)以来、力ある者が地方より都に集まり力を競って宮廷の守り役人となったが、この手乞の形式は長く鎌倉武士達の相撲会まで続いた。

  

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     狩野山雪 筆 「武家相撲絵巻」より 

    (財)日本相撲協会相撲博物館 所蔵

 

 清和天皇貞観十年、式部省の管轄であった節会相撲が兵部省に移され、左右近衛大将がこれを統括した。これにより相撲は武技として発達し、手乞にて天皇を守護することは、清和天皇の御孫六孫王経基が源の姓を賜ることにより清和源氏によって代々継承されていった。

 清和天皇より貞純親王源経基、満仲、頼義、義光と続く。新羅三郎源義光は左兵衛尉として宮廷に仕えたときには相撲強く海内一の弓取と称された。

 

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           源義光

       (『集古十種』より引用)

 

 義光はまた笙の名手でもあり、白拍子の舞に合わせる事も多く、白拍子の優雅で変化に富む柔軟な舞の中に、隙のない無形の理のある事を悟り、源氏伝来の秘法に工夫を加え、合気の秘奥を大成した。

 大東流の名の起こりは、義光幼少の頃、近江国大東の館に居住し、大東三郎と称されていたことによる。義光は大江匡房に就いて孫子呉子等の兵法を学んだ外、晩年には刑部入道として園城寺密教道場にて心身の鍛錬を行い無敵の神通力、霊感神格を体得した。義光は後三年役の戦功により甲斐守に任ぜられ、次男義清に源家伝来の旗と鎧を与えて嫡子と定めた。

 

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       足柄山で笙の秘曲を伝授する源義光

       『足柄山月』(月岡芳年『月百姿』)

  

 義清の孫信義が甲斐国北巨摩郡武田村に住し武田姓を名のり源家伝来の旗と鎧を武田家統領として子孫に伝え、大東流も共に伝承されていったのである。天正元年、武田信玄が他界し、信玄の弟国次は信玄の遺書をもち、天正二年会津に到着する。

 国次は信玄と盟約を結んでいた会津国司芦名盛氏に仕え地頭として、会津西青津村田方五十町歩を賜り小池に居住、士五騎、足軽十人を召抱えて仕えた。

 また、坂上田村麻呂建立の清寧寺を再建し、会津天寧寺末寺として西光寺(国次開基)と命名し、国次末孫武田家は清寧寺の守護神社、御伊勢宮の宮司を兼ね、会津に定着し以後も大東流合気の秘奥(小具足)を伝承していった。

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自分で手を動かして書き出してみると、俄然、大東流合気武道に興味が出てきました!

・・・しかし、古事記の時代からって、凄いな・・・。

 

次回は、あの徳川家康大東流合気武道との関係が明らかになります。

 

 

 

■連絡事項

・コンタクト先:山本(yamamotoecs@gmail.com

・稽古場:宝珠院観音堂名古屋市昭和区伊勝町2丁目9)

 

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